俺はその女の名を思い出すことができなかった。 ふわりと現われ、ふわりと消えた女の名だ。その女は唄うように話し、俺よりも遥かに大きな世界を見てきたくせに、「何も知らない」と喚きたてながら大声で泣いた。

 俺はおそらく、その女が気に入っていた。気分に合わせて曲を選ぶように、女を傍に置いておきたかったんだ。 憎しみとか愛しさとはわけが違う。このラジオから流れてくる的外れな音も、今は虚しさを掻き立てる。

 マグカップを二つ運んできたギアッチョは、押し黙っている俺を見てもいつものように酷薄で温かさの欠片もないような目をしていた。 俺を気にするような素振りはない。ギアッチョは俺にとやかく言う権利を持とうとしない。権利は義務を生む。 義務は誰かを苦しめることを知っているからだ。俺たちはそういう世界に生きている。

 ギアッチョは舌打ちをしてから殴るようにラジオの電源を切り、片方のマグカップを俺に差し出した。 俺は華奢な椅子に膝を引き寄せて座ったまま、手だけを伸ばして青いマグカップを受け取った。 あの女が忘れていったマグカップだった。鮮やかな青とくすんだ蒼が共存するそれは、あの女が一度も口を付けることはなかった。

 「上等なコーヒーは、乾いた土の味がする」

 マグカップに唇が触れたとき、誰かが言ったそんな言葉を思い出した。 俺は土の味なんて知りたくない。満たすためならインスタントで充分だ。でも、今はその味を知ってみてもいいと思った。あの女は笑うだろう。それでもいい。この青にはそれがよく似合う。

 ギアッチョは窓の縁に腰掛け、風に吹かれるカーテンに見え隠れしながら外を眺めていた。 どんよりとした厚い雲のしたにある薄暗い路地だ。石に囲まれ、窮屈で退屈な場所。

 「なあ、ギアッチョ。あの女の名前は――」
 「Luke」

 ぶっきらぼうな答えが潮辛い風に乗って耳に届いた。俺は立ち上がり、その傍らに立ってコーヒーを含んだ。 土の味がした。目を瞑れば緑の木々が見えるほど鮮明に――空っぽの胃がキリキリと痛む。 仕事のあとは何かを食う気にはなれなかった。ギアッチョもそうだろう。俺たちも悪魔じゃないってことさ。

 今まで堪えていた空が、とうとうポツポツとやりだした。 潮風は強くなり、さらに湿り気を帯びて重くなった。ギアッチョが窓辺にマグカップを置き、めずらしく優しく俺の肩を叩いた。

 「少し眠るか」
 「……そうだな、雨だし」

 俺たちは肩を組み合い、馬鹿みたいにフラフラとぶつかりながらベッドに向かった。 いつまでこんなことが続くのか、いつまでこんなことを続けるのか。嘆くことはできない。選んだのは俺だ。

 Luke、あんたはどこかで唄っていてくれ。そうすりゃこの時化た世界も救われるだろう。






の女






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pearさんはサイトではハリー・ポッターのお話を書かれている方なのですが、今回…ジョジョ…書いてくださいました…!
しかもギアメロ…!(私が普段ギアメロギアメロ言ってるからな…)
このお話には元々タイトルがついていなかったのですが、pearさんから 私にタイトルをつけてほしい、とおっしゃっていただいたので、僭越ながらタイトルを考えさせていただきました。
このLukeって女の子、拙サイトの名前と同じなのですが、実はLukeという魔女はある女の子をモチーフにしていて、このお話のLukeが正にその女の子のイメージ通りだったことにとても驚きました。
そしてそれ以上に、もうめちゃくちゃ嬉しかったです。
pearさん、素敵なお話本当にありがとうございました!







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