「現実から逃避するのと、現実と向き合うのと、君はどっちが良い?」


彼が笑顔で、しかもいきなりそんなことを聞いてくるものだから、心底驚いてしまった。ふくろう小屋の入り口で、ぼんやりと空を眺めていた私は、ジェームズの言葉に振り向いてきょとーんと固まったまま、たぶん凄くばかみたいな顔をしていたと思う。


「ジェームズは時々、突然よくわからないことを言い出すよね。」
「おや、心外だな。それじゃあまるで僕が変な人みたいじゃないか!」
「あ、自覚はなかったんだ。」


私がそう言うと、ジェームズは夏の青空みたいな声で、はははは!と高らかに笑うと、「まぁ才ある人間は、得てして世の中には受け入れられがたいものなんだよ」と言った。


「さて、僕のさっきの質問に答えてもらおうかな、。」


なぜ私がこんな質問の意味もわからないような質問に答えなければならないのか、皆目見当もつかなかったけれど、ジェームズの笑顔は、いきなり現れる罠のように逃げられない強さで私を捉えるので、私は半分冷や汗をかきながら彼の質問の答えを考えた。




「現実逃避の方がいいかな。」


私がそう言うと、彼はにっこりと笑って、「君なら100パーセントそう答えるだろうと思っていたね」と言った。そりゃそうだろう、と私は思った。現実から逃げても、現実と向き合っても、結局苦しむだけなのはわかってるんだから、それならちゃんと考える方がいいに決まってる。けれど、私にそんな強さがあるかと言ったら、それはまた別の話で。彼はそこのところをとてもよく分かっている人なのだった。(100パーセントっていうのは、さすがに少しへこんだけど…。)


「ただ、それじゃあ君が闇払いになるのは無理だということになるね。なぜなら現実逃避なんてしてちゃあ闇の魔術に打ち勝つ力を持つことなんて絶対に不可能だし、よしんば君が現実と向き合ったところで、今の成績じゃあとうてい闇払いになるには不十分だからだ。違うかい?」


私はもう驚くこともあきらめてしまった。私が闇払いになりたいなんてこと、誰にも言ってなかったのに、ジェームズが一体どうやってそれを知ったのか、考えるだけ無駄というものだ。だって彼はジェームズ・ポッターなのだから。
そう、闇払いになりたいっていうのは、私にとってのどの奥でつかえている鉛の玉みたいなものだった。どうやったって、越えられない壁っていうのは存在する。一生かけたって、越えられない壁っていうのは、確かに存在するんだってこの年でわかっちゃった自分が、何となく情けなかった。
私が彼の言葉の続きをおとなしく待っていると、ジェームズは満足気に微笑んで、私の耳元に唇を寄せて囁いた。


「今まで世界の誰も知らなかった秘密を、君に教えようね。」


ジェームズの、少し汗の香りと、さっき二人で飲んだジャスミンティーの香りに、頭がくらくらするような気がした。彼はふくろう小屋の階段の、石の手すりに飛び乗ると、びゅんびゅんと下から吹き上げる風を全身に受けながら、振り返って私の方を見た。私は一瞬おどろいて、ジェームズが落ちないように支えようとしたけれど、彼は目で私を制した。


「現実っていうのは、」


分厚い丸い眼鏡の奥で、彼は明るいハシバミ色の瞳を閉じて、静かに語り始めた。彼の声は穏やかに、唸る風音を越えて明るく響いていた。


「向き合うものでも、逃げるものでもないんだよ。ただ踏み台にするためだけにあるのさ。例え今の君の実力が、闇払いになるに到底足りないとしても、それはたいしたことじゃない。現実っていうのは、毎瞬変わるもので、それ自体が不変のもののことなんだ。」


彼が何のことを話しているのか、私の頭じゃさっぱり理解できやしなかった。ジェームズの背に遠く山々の尾根が、陽の光を受けて黄金に輝き、空を落としたような湖の湖面に、白くさざ波がたっているのが見えた。激しい風が彼の髪をくしゃくしゃにあおって、ジェームズは今にも落ちていってしまいそうだった。


「全然わからないよ。」
「それでいいのさ。現実って、理解できないたくさんのもののことだからね。」


ジェームズは笑うと、背中をこちらへ向けて、手すりの上で首だけで私を振り向いた。


「例えば、僕がここから飛ぶことが出来たら、君は闇払いになれる。それが現実だ。」


そんな乱暴な話があるだろうかと思った。箒なしじゃジェームズはもちろん空なんて飛べないし、たとえ飛べたとしたって、それで私が闇払いになれるだなんて、それこそ現実離れしすぎている。しかし、ジェームズは自信満々の笑顔で、唸る風を全身に受けながら両手を広げた。ネクタイが風にはためいて、赤と金色の美しい旗になって輝いていた。
腕をいっぱいに広げて、風をあびる彼の後姿は、まるで紅海を割るモーゼみたいだった。そう、間違いじゃない。彼が何が出来る人なのか、私は良く知っているんだった。ジェームズが私のことを知ってるのと同じように。


「僕はここから飛び立つことが出来るよ。現実っていうのは、見る方向によって変わるものなんだ。ほんの小さな石ころが、大きな山に見えたりする。でもたくさんの人はそれを知らないのさ。僕らはそれを越えていくだけでいい。君は、僕が飛べることをよく知っているよね、。それと同じように、僕は君が飛べるってことを、知っているんだよ。」


ジェームズの身体が大きな旗になって、きらめく青い空いっぱいに広がるのをみたとき、私は反射的に彼の服の裾を掴んでいた。
私は、彼が飛べるって知ってる。ジェームズとなら私が飛べるってことも、とてもよく知ってるんだった。道の無い空に彼が踏み出すように、私にもそれが出来ると彼は教えてくれた。
彼の現実はとても乱暴。だけど、ほんとになる力がある。私には彼の旗がある。暗く冷たい灰色の海で、輝く彼の旗がある。燃えるように翻るその旗が、私の世界にある限り、どこまでだって越えてゆける。彼は既に私を見つけてくれたのだから。










旗になる
































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