埠頭になだらかな波が打ち寄せ、東の空と海がだんだんと白み始める。
港に並んだ船はエンジンをふかし始めて、ネアポリスの街がゆっくりと動き出す時間。




メルジェッリーナ港から海沿いに二キロほど伸びる道は、ナポリっ子お気に入りの散歩道だ。朝はよぼよぼの爺さんや船乗りのおっさん、昼になると親子や観光客や猫が歩いていて、そして夕方、陽が沈むころになると、恋人達がテトラポットの陰で愛し合うのだ。


まだ人影もないその道を、ギアッチョと二人で歩くのは何だか不思議な光景だった。水平線を割って金色の朝日が、俺の前を歩くギアッチョを淡く照らし出していた。
会話もない。独り言だってない。ただ波の寄せる音を聞きながら、朝の風を受けて歩いている。
ギアッチョの長い腕。大きな手のひら。少し筋張った、長いしなやかな指。
俺はギアッチョの指がとてもとても好きだ、でも今はそれに触れることすら、怖くてできない。ついさっきまで、信じられないくらいに深く、繋がっていたというのにさ。




石造りの古い城が見えてくると、散歩道も折り返し地点になる。
よく結婚式が行われるその城には、恋愛のジンクスがあって。街灯の足に巻きつけてある鎖に、自分と恋人の名前、そして『TI AMO』と書いた南京錠をつけると、その二人は結ばれるらしい。昔、ギアッチョに「俺たちもやろう!」って言ってぶったたかれたことを思い出した。街灯の足には、沢山の恋人達がつけた南京錠が、ぶどうの房のように鈴なりになっている。




幸せな恋人たち。けんかして、手を繋いで、ヒステリーに殴りあったりしてさ。
そしてキスするんだ。
結ばれるってどういうことだろう。だって俺たちはきっと幸せになれない。いろんなものが邪魔をする。俺だってそうだ。幸せになれないことに安心してる。ずっとセックスだけしてるんだ、その方が怖くない。今、ギアッチョの手すら取れない俺には。


「おい、バカ面してねぇで手伝え。」


ギアッチョの声に、伏せていた顔を上げると、ギアッチョは俺を睨みながら、街灯に巻きついたチェーンを握っていた。
逆の手には小さな南京錠。


「え、おいアンタそれ…。」
「うるせぇなぁ。いいから来いよ。」


睨んではいるけど、ギアッチョの声はとても柔らかだった。朝焼けの光。海と、空が出会う時間で、とても淡くて、その色が。


「これにペンで『TI AMO』って書け。俺が鎖を抑えているから、書き終わったらその錠をここにつけろよ。」
「…アンタ、こーいうの似合わねぇなあ。」
「知ってるさ。」




何故だろう、嬉しくて、悲しくて、泣いてしまいそうになりながら、俺は南京錠に『TI AMO』と書いた。覚えていてくれたんだろうか。でも、だって、こんなことしたって、俺たちは結ばれやしないぜ。俺はあんたの口から『愛してる』という言葉を聞きたくない。そこから全てが終わってしまう。俺はきっと死んでしまうだろう。
朝焼けの街は美しい。美しすぎる。俺はそれに目を向けることすら出来ない。


「書いたら付けろ。押さえているから。」
「…名前を書くんだろ?じゃなきゃ意味がない。」


ギアッチョは俺をチラリと見て、小さな銀の鍵を取り出すと、俺の手の中の南京錠にそれを差し込んで、カチリ、と回した。鍵が開く。


「名前はいらない。それだけでいい。」


俺は鎖に錠を通して、カチリ、と鍵を閉めた。名前の無いままのジンクス。
結ばれるってどういうことだろう。お互いを愛し合うこと?セックスすること?結婚すること?幸せになること?俺たちにはどれも無理だ。満たされない。不完全さに安心してる。
「これはお前が持ってろ」と言って、ギアッチョは銀色の鍵を俺に渡した。いつか、この鍵を使うときが来るんだろうか。いつか俺たちが二人じゃなくなって、この錠前を外す日が。


「…俺たち、結ばれないと思う、ギアッチョ。」
「ああ、そうだな。」


俺が恐る恐る吐き出した言葉に、ギアッチョはいとも簡単に同意した。混乱する。だって錠前の意味は?ただの気まぐれだったのか?
困惑する俺を見て、ギアッチョは少し眼を細めると、俺の名を呼んだ。


「俺たちがこの錠前に名前を書きに来るのは、もっとずっと後のことだ。幸せも平穏も安寧もねぇこの世界が終わったあと。俺たちはお互いのことを忘れていて、別の誰かと愛し合い、別れて、成長する。そしてもう一度二人が出会ったとき、ここに名前を書きに来る。」




ギアッチョの髪は空の色で、その声は波の音。眼は海の色だ。朝の光の中で、どれも一番優しくなる。


信じていない生まれ変わりの話。約束は果たされないだろう。
生まれ変わったら名前を書きに来るための鍵だなんて。




現実味がない。ばかみたい。わかっている。それでもよかった。




「俺は待ってる。」


そうギアッチョは言った。
信じていない生まれ変わりの話。果たされないはずの約束。俺はこの鍵を使わない。俺がこの錠前を外しにくることなんて、絶対にない。


俺は鍵を握った手を、海に向かって大きく振りかぶった。海からの風に吹かれて、髪がなびく。朝日は水平線を離れて金色に輝いてる。
波。 美しい街。 空。


愛するということ。




海が空に恋するようにあんたを好きだよ。
だから待っててくれ。俺たちがもう一度出会うまで。
















世界






が終わるまで






まってて






BABY





















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