暗い石畳に降りしきる雨は、夜半を過ぎても一向にやむ気配を見せなかった。時折表の参道を車が通り過ぎ、水溜りをはねる音が一瞬響いて、また静まり返る。暗闇に細い雨の糸が、光っては消えている。

メローネはリビングの入り口のところにもたれかかったまま、こちらを見ている。入ってくる気は無いらしい。
俺はため息を吐くと、両手で顔を覆ってうなだれた。
雨の降る静かな夜だった。生きているものなど、それこそ何も居なかった。



「…俺の隣のアパートによ〜、ババアが一人住んでんだけどよ。」


顔を覆ったまま、俺は口を切った。メローネは返事もせずに、微動だにすらせず、こちらを眺めている。


「いつも買い物の帰りに、階段下で立ち往生してやがるのよ、買い物かご抱えて。階段の傾斜が急すぎてよー。「ナンだこれ、ほんとに人が使うこと考えて作られてんのか」ってくらい不親切な設計の階段で、大人の男でもヒーヒー言わなきゃあがれねーほどキツイんだわ。」


秒針が時を刻む音と、雨が石畳を叩く音が、かえって静寂を主張していた。なぜこんな話をしてるのか、しかもメローネ相手に、俺にだってわかりゃしなかった。ただ、あのメローネがちゃちゃも入れずに俺の話を聞いてるってことが、俺には不思議で、それが話の続きを促した。


「アパートの前通る時、入り口から時々そのババアが立ち往生してんのが見えるんだよ。誰かに声かけて助けてもらえばいいのによー、一人で上がろうとして結局途中でへばって座り込んでんだ。アパートの住人も薄情なもんで、誰も助けようとしやがらねぇ。まぁ俺だってんなババア、係わり合いになるのはごめんだけどな。
でこないだよー、あんまり長いことうずくまってやがるからよー、「死んだか?」と思って、近づいてみたわけよ。そしたらそのババアどうしたと思う?にっこり笑って『こんにちは』だぜ。アホか、と思うだろ。『とてもいい天気ですね』だとよ。笑っちまう。テメー階段のぼれねーで、死にそうにへばってたんじゃねーのかよ。言うことが違うだろ。「ちょっと手をかしてください」とか、フツー言うだろ。大体俺はその日がすげーいい天気だったってことなんて、ババアに言われるまで気付かなかったっつーのよ。だってどうだっていいだろそんな事。天気がよかろーが悪かろーがよ、っつーかそのことをババアに言われてはじめて気付いたってのがスゲー癪でよ。ババアの掴んでた買い物かごひったくって睨みつけて、『部屋、何階だ』って聞いちまった。」
「…なんだそれ。」


俺が一気にここまで喋って、やっとメローネは一度相槌をうった。
うつむいていた顔を上げてみると、メローネは笑っていた。おかしそうに、というか、嬉しそうに微笑んでいた。気持ち悪ィ。


「気持ち悪ィ。」


思ったことをそのまま声にすると、メローネは「うるせーよ。」と笑って、暗い部屋の中を、するりと…流線型の無駄の無い動きで、俺の座っているソファまで歩いてきた。あー、やっぱこいつAssassinoだな。


晴れたり降ったり、そんなことがキレイだなんて思ったことはなかった。陽は照らし、雨は潤す。全てのものに平等だった。美しいのだろうか、それは?俺にはわからない。わからなかった。
暗闇に雨が降っていた。生きているものなど何も居ないような夜だった。




「ババア死んじまった。」


メローネが俺の隣に腰掛けると同時に俺は呟いた。ボロいスプリングのきしむ音と重なったから、こいつに聞こえたかどうかは知らねぇが。


「部屋で発作だとよ。せめて「階段から落ちた」とかだったらよー、まだオチもついたっつーのによ。全然関係ねーじゃねえか、発作ってよー。」


そして俺はその日人を殺した。
いつものことだった。殺すのも殺されそうになるのも、遠いところで誰かが死ぬのも仲間が死ぬのもいつものことだ。
何が美しいのか、何が尊いのか、もう長いこと知らずに生きてきた。晴れ渡った青空の光、芽吹いた若葉の香りや、生きている人の声、部屋に響く雨音がこれほど静かなものだとは、俺は考えてもみなかった。
人を殺して生きている。俺が命のことを考えるのは間違っているか?同じ日に別の命を奪っておきながら、去ってしまった命を惜しむ資格はねーか?俺は悲しんではいけないか?
正しいことがわからない。




いつの間にか雨脚が強くなっていた。
開けっ放しの窓から、時折雨粒が滑り込んできていた。雨音は緩やかに波打ち、拍手喝采のように聞こえる。
メローネは一度ゆっくりと瞬くと、ばかだな、と囁いた。
白い腕が闇の中に伸ばされて、俺の頬をその指先が掠めた。まるで時を止めるようにこいつは動く。


「ギアッチョは一人じゃ泣けない。二人で居るとなおのことだ。あんたはバカだから、どっちみち泣けやしないんだ。」


暗闇にメローネの瞳が浮き上がっているのが見えた。エメラルドのような色をしていると、俺はこのとき初めて知った。


「だからキスしよう。」


俺の返事も聞かずに唇は触れていた。


呼吸の音も聞こえないくらいにそっと口付けられていた。闇の中で鮮明なのはそこだけだった。俺はこの唇を知っていたか?


あたたかい、
      やわらかい、
            とても静かで、
                    懐かしい。


情けねーことに、大粒の涙をぼたぼたとこぼしながら、俺は考えた。
悲しんじゃあいけねーなんてことはねぇ。なぜなら俺たちは人間だからだ。


メローネの唇の温度はとても緩やかに、俺の涙を促した。
ほどけるように溢れだしてとまらなかった。


雨はやまず、二つの美しい瞳は、未だ閉じられている。










カーテンコール

























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