不意に風が吹いたので顔を上げたら、その男と目が合った。






一巡世界







週に一度は必ず本屋へ足を運ぶようにしている。
普通の本屋でもいいし、古本屋でも構わない。要は、新しい知識、あるいは最新の知的情報が、向こうから勝手にやってくる、という所が重要なのだ。本屋や図書館というのは、幼い頃の俺にとって、不思議な世界だった。新しい紙の匂い、古いインクの匂い、様々な文字、様々な色の背表紙がそこかしこに溢れている。時空と時空のスキマみたいな場所だ。そのスキマには、古今東西あらゆる時間と場所の思想や歴史や物語たちが、ぎゅうづめになって誰かに見つけてもらうのを待っている。
そこへ一歩足を踏み入れたとたん、俺の心は棚から棚へ、あらゆる世界の間を行き来する。目を開いたまま見る、淡い夢のような場所だ。それは俺が子供の頃から今までずっと変わることなく、やってきた俺をそっと迎え入れ、表面だけを撫でさせて、しばらくすると決まって俺を現実の世界へ押し戻すのだった。


最初は、その夢の続きを見ているのかと思った。
棚と棚の間の狭い通路に滑り込み、探していた著書を見つけた時だった。不意に、通路の突き当たりにあるガラス窓の外で、大きく風が吹いた。それは石畳の地面をすべり、初春の陽光を巻き上げながら、ヒュウと乾いた声をあげて天空へ吹き上がっていったのだった。
俺は何かに導かれるようにして顔を上げた。それは俺にとってごく自然な動作だった。俺がその風の音を聞き、顔を上げることが、まるで何百年も前から決まっていたことであるように、俺は何かの引力にしたがって顔を上げたのだった。


その男は、通りの向かいにあるガラス張りのカフェの二階からこちらを見ていた。首をちょっと傾けて、気だるげに頬杖をついていたのだが、俺と目が合うと、少しだけ目を見開いて驚いたようだった。瞳はガラス玉のようなグリーンだった。夏に海になんか行ったら、すぐに太陽の光にやられちまいそうなくらい、淡くて人工的なグリーンだ。


男は俺から目を逸らさなかったし、俺も男から目を逸らさなかった。
ずっと後になってから、その男(そいつはメローネという名前だった)は、その時俺たち二人の間に別の世界の扉が開かれたのだと言った。
いつもの俺なら、何をばかげたことを、と取り合わなかっただろうが、このことに関しては何故か納得してしまった。
俺はその時本と本の間で浅い夢を見ていたし、奴は奴で、退屈な日常と淡い陽光の間に、違う世界を見ていたのだ。その淡い夢のような世界をくぐりぬけて俺たちが巡り会ったことは、俺には必然のように思えた。




俺はレジで会計を済ませ、急ぎ足で道を渡ると、そのカフェに入った。最近イタリアでも流行りだした、セルフサービスのカフェとかいうやつのようだった。気にくわねぇ。カフェってのは長居するための場所じゃあねえだろうが。俺は鼻息荒く憤慨しながら、カウンターでエスプレッソを注文すると、出てきたソーサをひったくるように受け取って、二階席へ向かった。
特に何か考えて行動していたわけではない。そうすることが自然だと思ったから、そうしていただけのことだった。呼吸することや、瞬きと同じことだ。或いは、朝起きたらシャワーを浴びる、休みの日には市場へ出かけるように、無意識に自分の中に植えつけられた行動、というべきだろうか。
『俺たちが出あった』、『だから会いに行く』。まるでずっと以前からそう定められていたかのように、俺は階段をのぼった。まるで本屋に居るときの、淡い夢の中を歩いているようだった。しかし一方で、現実的な苛立ちと怒りが俺の奥底でくすぶっていた。なぜだか分からないが、ひどくいらいらした。

階段をのぼりきり、さっきの男が座っていた辺りを見渡した。勢い良く振り返ったので、ソーサの上でカップが跳ねて、エスプレッソが少し零れ落ちた。何人かの客がちらりと俺の方を見て、またそれぞれ自分のカップに視線を戻した。
男は居なかった。
そのフロアのどこにも、さっきの男の姿は見えなかった。















たぶん続かない





















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