彼について

















本を読む時にしかかけない眼鏡が、意外と似合っていた。
何を読んでる、と聞くと、ホルマジオは指を栞に本を閉じ、俺に表紙を見せながら笑った。
トマス・マン、『トニオ・クレェゲル/ヴェニスに死す』。ギアッチョから借りたのだと言う。


「鍋の底みてぇな曇天のゲルマン文学は、肌に合わねぇと思っていたけどよ。全くその通りだったぜ。」


それでもちゃんと読了し、感想つきで本を返す。それが俺の知っている、ホルマジオという男だった。




彼の好きなこと。
昼間からチーズをつまみにワインを飲むこと。猫を膝の上に乗せ、その毛並みを撫でてやること。気まぐれにオペラの当日券を買い、端っこの余り席でオーケストラを楽しむこと。煙草を吸うこと。
ホルマジオは愛煙家だった。
と言っても、ヘビー・スモーカーやチェーン・スモーカーじゃない。自分に必要な量を、必要な時に、きちんと『嗜んで』いた。例えば、朝起きてすぐ。あるいは、殺しのあと。あいつのそういう煙草の吸い方が、俺はひどく好きだった。
ダルムの黄色、一袋40グラム入りの軽い葉を、四日ばかりで吸っていた。フィルターはスリム。女みたいだ、と一度からかったら、


「これだと吸う時間が短くて済むだろ。一本吸って、すぐに殺せる。」


と笑っていた。
片手でくるりと煙草を巻くのがとても上手くて、俺もやってみようと同じ葉っぱを買ったけど、一度も上手くいかなかった。両手を使っても上手く巻けずに辟易した。俺は元々煙草も吸わなかったから、すぐに諦めて、余った煙草はメローネにやった。


ホルマジオはよく笑う男だった。
夏の空を遮って日陰を作る木立の下だとか、晴れた日のオープンカフェでエスプレッソを飲みながら、ときどきひらりと手のひらを返したりして笑うのが印象的だった。南の人間にありがちなオーバーアクションで、よくギアッチョやペッシなんかにちょっかいかけては遊んでいた。
ただ俺と居る時は、静かに笑っていることが多かった。
夜明けに見る幻影のようだったと思う。俺の名前じゃあないけれど。一瞬だけ、弱い光が靄の中を薄明るく照らしだし、それが本当か嘘かわからないうちに朝は来て、たちまち強い光が幻影を覆い隠してしまう。その一瞬の朝焼けのような笑い方だった。




「俺ァ、酒と煙草がありゃあ自由に生きていける。」


そう言って酒場でグラッパをあおるホルマジオの隣で、俺はちびちびとカイピリーニャをすすっていた。


「金は?自由に過ごすには金が重要だろ?」
「必要だが重要じゃあねぇ。金はすぐに消える。金で買ったもんもいつか消える。」
「酒と煙草もいつか消えるぜ?」
「固執しちゃいねぇってことさ、要は。」


俺は金より煙草を取るね、と言って、ホルマジオはバーテンに新しいカクテルを注文していた。ときどきこういった哲学染みたことを話し出すのもあいつの癖だったけど、俺はいっつもあくびをしながら話半分に聞いていたし、あいつも別に気にしていないようだった。
二人で飲む日はいつもホルマジオのおごりだった。割り勘にすると言っても、「後輩におごれもしねぇような甲斐性無しじゃあねえからな」と、結局いつも押し切られる。ホルマジオにとって金というのは、誰かと共に過ごす時間に支払うささやかな代償、あるいは自分の幸福を形作る材料を調達するための、プロセスでしかなかった。だからいつだって金払いはよかったし、俺はホルマジオのそういうところがとても好きだった。ほとんど憧れに近かったと思う。




ホルマジオという男について、俺が知っている事といったらこのくらいだった。生まれがどこで、どういう少年時代を送って、家族は今どうしているのか、恋人はいるのかとか、そういったことは何一つ知らなかったし、知る必要もなかった。
ここちよく重い絹張りの、アルバムの頁をめくるように思い出すのは、あの日の空の色。煙草を挟む、左手の人差し指と中指が美しかったこと。親しげに肩を組んでくるときの腕の重み。ワインを選ぶ時の横顔。両頬にさよならのキスを受けたあと気付く、香水の匂い。


不意にあいつに呼ばれた気がして顔を上げたが、そんなはずはないということも分かっていた。無口なアジトのリビング・ルームで、うなだれるチームのメンバーの影があるだけで。
幻影。
あいつが俺の名前を愛していてくれたならいい。強い光に隠された一瞬の、でもこの世の何より美しくて幸福な時間。俺はあいつの笑った顔がとても好きだった。
滲みだすように、よどむ視界。涙と、消えた幻。




























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