いつ頃からだとか、きっかけが何だったとか、そんなことは覚えていない。
見たことのない景色を、『思い出して』いた。
眼下に悠々と広がる海原。ちぎれた綿雲の浮かぶ青い空。断崖の下から吹き上げる強い風に乗って、俺の心は空へ舞い上がる。
水鳥のはばたきにも似た速度で、誰にも追いつけないほど高く、潮騒よりも遠く。










もうずいぶんと長いことネアポリスに居ついているというのに、俺はまだ一度も海を見たことが無かった。おそらく、生まれてから一度もだ。だから、海というものがどんなものなのか、本当のところ俺にはよくわからなかった。テレビや映画で得た、細切れの知識があるだけだ。
そうギアッチョに話すと、アイツはひどく驚いた表情で俺を見た。


「おめーこの街に住んでいながら、その歳で、一度も海を見たことがねぇのか。」
「悪いかよ。」
「悪かねぇが、普通じゃあねえな。」


悪びれる風もなくそう言いながら、ギアッチョは湯気の立つカップを二つ、テーブルに置いて、自分も腰掛けた。こいつの作るラテはちょっとしたもんだ。アジトのソファにゆったりと深くもたれながら、弾力のあるミルクの泡をスプーンで弄ぶ。




海からの風が吹いている。潮の香りが混じった風を肌に感じながら、こうしてソファに深く腰掛けて瞼を閉じると、水鳥の声が聞こえてくるような気がする。見たこともない砂浜にたつ白波、浮かんでは消える水面の泡が足先に触れる感覚や、沖の潮騒を、まるで本当に感じているかのように錯覚するのだ。


「お前よぉ、そりゃ一回くらい海を見に行かなきゃいけねーぜ。ネアポリスに住んでんならよぉ。」
「やだね。肌が焼けるし、なによりめんどくさい。」


俺があからさまに顔をしかめて反論すると、ギアッチョはカップに口をつけたまま、ちら、とこちらを見て、呆れたようにため息をついた。
何だか馬鹿にされたみたいで腹が立つ。行きたくないと言って何が悪いんだ。ネアポリスに住んでる人間が、全員海を見たことがなきゃいけない、なんてこたねーだろが。


「オメーは全然わかっちゃいねー。」


その言葉の意味が分からなくて視線で問いかけると、ギアッチョは、珍しく真剣な瞳で、ひたと俺を見た。
この瞳を見ると、いつも不思議な気持ちになる。
さざ波がだんだんと無に還っていくような、あるいは頬を撫でる風が不意に凪いだ時のような、突然の静謐と郷愁が、俺を満たす。


「お前のそれは、憧れという。」


ギアッチョの声音はひどく穏やかだった。
いつものキレた思考や喋り方からは想像も出来ないくらい。
彼の青い瞳が、静かに俺を捉え、その無限に広がるような世界の中に、俺は何かを見たような気がした。




欠けているものがたくさん、ある。
ギアッチョは俺にそういった。俺も、お前も、たくさんのものが欠けている。与えられるはずだった温もりや思い出、本当は見るはずだった景色。夜になると灯る窓の明かりや、ガキの頃好きだった本、頭をなでてくれる大きな手、それから…誰かが自分のために作ったカフェラテだとか。


「俺がなんのためにお前にラテなんて作ってやってるか、考えたことあったか?」と、ギアッチョは言った。
考えたことなんてなかった。一度だって。言葉はしかし声にはならなかった。
与えられることのなかった思い出。憧れ。


俺の知らないうちに彼が与えてくれたものが、きっと他にもたくさんあるのだろう、と俺は思った。
真っ白なカンバスに少しずつ色をおいてゆくように、長い長い時をかけて。まるで気の遠くなるような話だ、と思った。そして、確かに、俺は何にもわかっちゃいなかったんだ、とも。
海と空のあわいを抜き取ったかのような彼の瞳に、午後の光が差すのが見えた。空を翔る水鳥のように、白い光は揺らぎ、そして俺をさらっていくのだ。






瞼を閉じると、やはりあの景色が目の前に浮かんだ。
海鳥は絶壁の側面で毛づくろいし、いい風が来ると水面すれすれまで滑空して、伸びあがるように、空へと舞い上がる。
崖の縁には青々とした草が伸び、白い小さな花が海からの風に揺れていた。
この景色を、俺は知っていたのだ、と思った。
青い空の端とその境を溶け合わせながら、悠々と横たわる海原。
優しい思い出や、残酷な物語、午後の静かな時間や不確かな明日へ寄せる思い。その全てを受け入れ、溶かし、包み込んでそのものとする、海を。
静かに目を開くと、ギアッチョの双眸が俺を捉えていた。無限に吸い込まれるような青さ、空と海の溶け合った、淡い水平線の色だった。


ギアッチョの言うとおり、彼に欠けているたくさんのものを、俺が持っていたらいい、と思った。そうして彼に与えられるはずだったものを、俺が彼に与えることができたら。
メローネ、と俺の名前を呼んだ彼の声は静かに、遠く彼方から寄せる潮騒の響きだった。


















世界で一番最後の海






















(お互いにそっと与え合うように生きていてほしい。)




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