「ハバナの海に溺れてみたい。」 そう言って煙草をふかすメローネの顔がひどく楽しそうだったのを覚えてる。 俺がマッチで煙草に火をつける理由は三つあって、一つがライターのガスのにおいが嫌いだから、もう一つがマッチだとタダで手に入るからで、三つ目が、昔好きだった映画の主人公がマッチを使っていたからだ。メローネの煙草を勝手に巻いて火を点けると、メローネは寝転んでいたソファから顔を上げて俺を見た。 「あんた煙草吸わないんじゃなかったの。」 フン、と俺は鼻を鳴らして、灰皿に一度灰を落とした。いっぺん『吸わねぇ』っつったからって、死ぬまで吸わねぇなんてことがあるかよ。 「昔な、エジプトのエライ王様が言った。『一度言ったことを馬鹿正直に守ってるようなやつは、八つ裂きにしてピラニヤの餌にしろ』ってなァ〜。」 メローネはヒューと一度口笛を吹くと、「アハ、何それ?」と嬉しそうに笑って、またソファに身を沈めた。まぁ結局のところどうだっていい話だった。 「最近よォ〜、すぐにモノ忘れるんだよなぁ〜。アレどこに置いたとか、ここの角どっちに曲がるかとか、昨日寝た女の顔とかよォ〜。あんたどう思う?コレって若年性痴呆症かな?」 俺の腰掛けてるソファからはメローネの顔の右半分しか見えなくて、マスクに隠れた目元と裂けたように笑う口元が、ひどく扇情的だった。チリチリと、煙草の葉と巻紙の燃える音が聞こえる。たまにアメリカン・スピリットみたいな強ぇのを吸って、ヤクやったときみてぇに頭がくらくらするのが好きだ。ハバナの白い街でこういう風に煙草が吸えたら、きっととても幸せだろう。 水色のカラーセロハンのような海。水面を通った光の影と、遠くに白い壁の街。 波音。 「ヤクでトんでるだけじゃあねーのかよ。これだから中毒者は。」 ケッと鼻に皺を寄せて、煙を吐き出す。メローネは寝転がったソファの上で、長い足を脚を鷹揚に組み替えて…さも「心外だ」と言う風に肩をすくめた。口元は笑ったままだ。 「一週間前はケーブルカーの定期を落として…昨日は買ったばっかの煙草を失くした。今は財布が見当たんねぇ。どーこに…置いたっけぇ…。」 一度右手を高く持ち上げ、それからだらりと腕を落とす、その仕草。見えない横顔。なだらかな額を流れる髪。昨日は煙草を失くした、今日は財布を失くし、明日は知らねぇ野郎の腕を落とし、それから、幾人もの命をぼとぼとと、誰を殺ったか、昨日の晩メシは何だったか、だんだん記憶は抜け落ちて…。 「テメーみてーなヤツはすぐに死ぬ。」 俺は煙草のフィルターを噛み潰しながら、神経質にそう言った。メローネは「アハ?」と興味なさそうに笑った、笑って、それから…。 強い日差しに目を細めると、眼前に広がるのはハバナの海だった。 実際ハバナになんざ行った事はねーが、遠い岸辺に光る白い街並みと、波なんざまるで無ェ透き通った海、虹色に光る太陽を見て、「ハバナでいいじゃねぇか」と思った。 俺とメローネの居た二つのソファは白い小船だった。メローネは俺の正面で、さっきと変わらず寝そべって、時々青い水面に指先を滑らせている。 沖で犬が一匹溺れていた。灰色の、ガリガリに痩せた小汚ェ犬だった。必死で前足で水をかいていたが、海というのは残酷で、哀れな犬を生かさず殺さず少しずつ体力を奪っているのだった。 犬をボートにあげてやろうと思って辺りを探したのだが、オールが無い。俺は一度舌打ちをして、「おい、メローネ…」とヤツを振り返った。 メローネは既に起き上がっていて、静かに沖の方を眺めていた。水面から反射する光が、金色の髪に映って魔性のように揺れている。その長い髪の帳の奥、マスクで隠された右の瞳は確かに、溺れている犬を捉えていた。 メローネがおもむろに立ち上がり、「行こう」とだけ言っていきなり海に飛び込んでしまったので、俺は慌ててメローネの後を追った。ざぶん、と耳の周りで音がして、溢れるあぶくと冷たい水の感覚、水色のカラーセロハンを幾つも透かしたような海の中に、俺たちはいた。ただボートから飛び降りただけなのに、沖に居たはずの犬はいつの間にか、俺たちのすぐ上でもがいていた。 犬はもうだいぶ弱っているようだったので、助けてやるか、と浮上しようとしたら、メローネに肩を掴んで止められた。俺はむっとして、文句を言おうとしたのだが、メローネはゆっくりと腕を持ち上げて犬を指差したので、俺はその軌跡に誘われるように視線を滑らせて、水面で溺れている犬を見上げた。 それは奇妙な光景だった。 太陽の光を透かした水面で、溺れている犬の頭から、いろいろなものが落っこちてくるのだ。それは高そうなドッグフードのパッケージだったり、夕暮れに染まる歩道の光景だったり、犬の頭を撫でているガキだったりしたのだが、それらが全部大きなあぶくに包まれて、ぽこん、ぽこん、と犬の頭から抜け落ち、俺たちの横を通り過ぎて、暗く深い深淵…紺碧の水底へ吸い込まれてゆくのだった。 (これは犬の記憶) 俺は落ちてゆくあぶくに手を伸ばしたが、あぶくは俺の手のひらに触れることなく、ゆうるりと暗い海の底へ沈んでいった。 どんどん忘れていくのだった。 定期を落とし、煙草を失くし、大切だったはずの記憶をも落とし、やがて死んでゆく苦しみすら忘れて、そして。 いつの間にか、水面で溺れているのは犬ではなくて俺だった。淡い波がゆっくりと、優しく優しく俺の首を締め上げている。息ができない。俺の頭からあぶくに包まれた記憶がひとつぽこんと抜け落ちて、足元の闇に沈んでいった。 (メローネ) あいつは何処に居る、と遠のく意識の片隅で視線を巡らすと、メローネは俺よりもはるか下、もう殆ど水底の闇に消えようというところまで体が沈んでしまっていた。 メローネの額からゆっくりと、ひときわ大きなあぶくが、あいつの最後の記憶が抜け落ちようとしていた。あいつは既に色々なものを失くしすぎている、だから俺よりずっと早い。俺はメローネに向かって手を伸ばしたが、到底届く距離じゃあない上に、俺の方も溺れかけているのだから、もうどうしようもなかった。苦しい、息が。 ゆっくりと首を絞められ、溺れる犬。 色んなものを落とし、少しずつ忘れて、いつか自分の命を落としても気付きやしない。そういう風に死んでゆく。 あいつの名前を呼ぼうとしたが、言葉は声にならず、俺の肺から最後の空気が逃げていった。薄れてゆく青い視界の中、俺はメローネの額から抜け落ちる、あいつの最後の記憶を見た。 俺だ。 「メローネ!」 その瞬間、海は波立ち、たちまち大きな渦巻きが起こって、俺とメローネは一瞬のうちにお互い引き寄せられていた。俺は気を失っているメローネの腕を掴み、自分の腕の中に収めると、渦巻きの中から、光差す水面を見上げた。 (眼を開けろ) 俺は荒巻く水を蹴りつけて、メローネを抱えたまま水面へ向かって這い上がった。浮き上がってゆく俺たちの傍らを、さっきの灰色の犬が、渦巻きに捉えられて、冷たく深い海の底へ、静かに静かに沈んでゆくのが見えた。 (俺たちは、ああはならねぇ) 大切なものを落として死んでいく、そんな風にはきっとならない。おまえが俺を忘れるなら、そのたび思い出させてやる。忘れる暇など無いくらい、二人で生きていけばいい。 もうハバナの海なんざどうだってよかった。眼を開けろメローネ、眼を開けて俺を見ろ。灰色の犬が沈んでゆくのが見えるだろう。近づいてくる水面の光が見えるだろう。俺たちは見つけた。俺たちがどうやって生きていけばいいのかを。 水面の光は消え、俺は身をかがめて、ソファで寝息をたてているメローネの額にかかった髪をそっと払った。 さあ眼を開けろ、メローネ。俺がおまえの最後の記憶になってやる。 |