白いサンダル 悪くねぇじゃねえか。 ショウウインドウに映った自分の足元を眺めながら、ギアッチョは思った。 二日前にセントラルの靴屋で買った、ドイツの有名メーカーのサンダルである。 本当はちゃんとした靴を買う予定だったのだが、店内でふと陳列棚に並べられたサンダルに目が行き、試しに履いてみると、それがまるで足の裏に吸い付くように、ギアッチョの足にぴったりだったのだ。 ネアポリスは既に初夏の様相だった。市場には色とりどりの夏野菜が並び、道を行く人々も、すっかり夏の装いで闊歩している。オープンカフェの座席も増えて、人々はそれぞれ思い思いの恰好でくつろいでいた。 ギアッチョは、Tシャツにジーパンという全く平凡極まりない恰好の中で、足元でしっかりとその存在を主張しているサンダルに満足した。飾り立てるのは好きではない。だが、服装には気を使うべきだと思っている。普通の服装の中に、どこか一箇所気を引き締めるようなところがあればいい。このサンダルは、ギアッチョのその要求に見事に応えていた。 大学の授業は午前中だけで、午後からは特に何も予定はなかったので、カフェか公園でレポート用の本でも読もうか、と街をふらついていると、見知った相手に声を掛けられた。 「よーギアッチョ。今から授業?」 「…イルーゾォ。」 道の向かいから、重そうな鞄を抱えて声をかけてきたのはイルーゾォだった。車が来ていないことを確認して、ギアッチョの居るほうにやってくる。 「今日は朝だけだった。今は帰りだ。」 「そうなんだ?俺は今から大学。」 そう言って、鞄を持ち上げる。イルーゾォは表向きは美大の学生と言うことになっていて、屈折光学やらなにやらを用いた、ギアッチョにはよくわからない論理に基づいて絵を描いているらしい。大きな鞄に入っているのは絵の道具らしかった。 プライベートで会うということが殆どない二人だったが、何となく出会ってしまったので、そのまま道行を共にすることにした。元々ギアッチョには何の予定もなかったのだから、問題はない。それに、新しいサンダルを買ってちょっと歩きたい気分だったから、かえって都合が良かった。 道から溢れるほどの人波を縫って、二人は器用に歩いてゆく。イルーゾォなどは、重い絵画用具を抱えているとは思えないほど滑らかな動きだった。 信号待ちで一度立ち止まったとき、イルーゾォがふと口を開いた。 「それ、新しく買った?白いサンダル。」 ギアッチョの足元を眺めて問うイルーゾォに、「ああ。」と短く返事を返すと、「いいの買ったなぁ。」と、なぜかあっちが嬉しそうにするものだから、ギアッチョは少し面映い気持ちになった。 まさか同僚にそんなことを言われるとは思っていなかったから、というのもあるのかもしれない。 自分の気に入っていたものを褒められて、ギアッチョは気を良くした。 「仕事ん時履けねーのが残念だけどな。」 「はは!仕事の時にサンダルだったら問題だよなぁ!」 「まあ、プロシュートやペッシあたりなら、サンダルでも仕事できそうだけどな。」 「ペッシはともかく、プロシュートは履きそうにねーなぁ。全っ然似合わねー!」 変わった信号に再び歩みを進めながら、取るに足らない話をする。季節はすっかり夏の様相だった。靴ではなくてサンダルを買ってしまったのも、そのせいかもしれない。 いい靴はいい場所へ連れて行ってくれる、という話を聞いたことがある。靴に行き先を決められてたまるか、とギアッチョは考えていたので、そんなことを信じているわけではなかったが、いい靴を買うと、それを履いて出かけたくなるのは本当だな、とギアッチョは思った。今まで行った事のなかった場所にも、行ってみようかという気になる。それが「いい靴はいい場所へ連れて行ってくれる」という言葉になったんじゃあないだろうか。 いつかイルーゾォと居た時に、そんなことを考えていたな、と、朝焼けの光の中を歩きながらギアッチョは思った。 季節はまだ春になったばかりで、とてもサンダルなど履ける気温ではなかったし、その日もギアッチョは仕事用のしっかりした靴を履いていたはずだったのだが、まばゆいほどの光の道を歩いているギアッチョの足元には、あのサンダルがあった。 いい靴はいい場所へ連れて行ってくれる。 もしかしたら…ギアッチョは思った。もしかしたら、それも本当のことかもしれない。足元にこの白を履いて、どこまでも歩いて行けそうな気がしていた。 上等の靴を履いて、長い道のりを歩いていったその先に、かつての同僚が…もしそう呼ぶことが許されるならば、『友人』たちが…待っているなら、この旅路もそう悪いものではない。 そんなことを考えながら、輝く朝の光の中を、ギアッチョは歩いていった。どこまでもどこまでも、長く緩やかに横たわる天上の道を、彼の気に入りの、白いサンダルを履いて。 |