行きつけのバルに置いてあったピアノが、古くなったってんで店の奥にひっこんでから、もう既に何年か経つ。仕事帰りにバルに寄ったら、久しぶりにそのピアノが表に出てきていて、ああまた店に出てくるんだな、と思ってカウンターのおやじに話を振った。


「ああ、あれはもう捨てるんだ。譜面台にカビは生えてるし、鍵盤はひっかかったみたいになって動かねぇし、もう長いこと、調律もしてないからなぁ。」






「お前ピアノなんか弾けたのか。」


人気のなくなったバルのホールで、ピアノの前に置いた椅子に座っていたら、ギアッチョが声をかけてきた。
バルのおやじに頼んで、最期に一度ピアノを弾かせてもらいたい、と頼んだのは俺だった。一人じゃつまらないんでギアッチョも誘った。他のメンバーは殺しの仕事だ。アジトにゃ誰も居なかった。


鍵盤をポン、とたたくと、まあるい音がぽこんと生まれる。
薄暗がりの中で、埃っぽく弦がふるえる。
目を閉じて、両手を鍵盤の上に置いた。


鍵盤に向かっている間は喋らない。
目を閉じて、何がどこにあるのか、全て分かっている。どういう風に触ればどういう音が出るのか。古くなってタッチの悪い黒鍵は、少し遅れてレのフラットが鳴る。
曲は全部指が覚えている。やりかたは全部わかってる。
セックスみたいだね。


「教えてもらった。ずっと昔さ。ピアノは好きだったな。」


静かに静かに一曲を弾き終えて、やっと俺は口をきいた。
街の雑踏が聞こえてくる。興奮した叫び声や、たまに発砲音。全て薄明るい埃のように、不確かにきらめいて、翳りを帯びた部屋の中に降り積もってくる。


「まだ俺は若かったな。色んな事してたよ。あ、色んな子としてた、の方がいいかもな。誰に教えてもらったかは忘れたな。どっちみちあんたの知らない人さ。」


俺はにやりと笑ってギアッチョを振り返った。
古い椅子の脚がぎしりと音をたてて笑った。
ギアッチョは少し離れたテーブルの脇にもたれて、腕を組んで俺を見ていた。
彼の巻き毛はとても綺麗なんだ。月の光のようだな。


ギアッチョが不意にこちらへやってきたので、怒らせたかな、と思った。
けどギアッチョは、俺に「どけ」と言うと、ボロの椅子に座って鍵盤に手をかざした。


手。
彼の身体で最も美しい部位だと俺は思っている。
ギアッチョの指がなめらかに鍵盤の上に落ちるのを、俺は魔法にでもかけられたように眺めていた。
今まで聴いたこともないような音。調律されていないピアノだと思えないほど、これはなんだろう、ショパン?分からない、ただ、ピアノに向かうギアッチョの影が、白鍵の上を踊る指が、何かを求めてやまないような音色が、全て恋しくて恋しくて、俺はたった一人で暗い星の海に突き落とされたような気持になってしまって、思わず手を握りしめた。


ギアッチョの指が、柔らかに最後の鍵盤に触れた。目を閉じて。
雑踏が遠のく、音と。




「テメーのはまだまだだな。人に聞かせんなら、もっと練習してこいよ。」
「…あんたも弾けたのか。」
「まあな。もう二度とやろうなんて思わねーがな。」


そう言いながら鍵盤を撫でるギアッチョの顔が、しかめつらのくせに、何故かとても愛しかった。




「俺はあんたを傷つけようと思っていた。」


俺の言葉にギアッチョは、ギロリと目だけで俺を見た。
古ぼけたピアノ。傍らの椅子。月の光。二人。


「なんでもいいから傷つけたかったんだ。ひどい言葉を浴びせたり、あんたの知らない過去の話を持ち出したりしてさ。そういう時、あるだろ?わけもなくいらいらしたりしてさ。とにかく、あんたをボロボロにしてやりたかった。」


自分の声がどこか遠くから響いていた。ギアッチョの弾くピアノの音みたいだな。なんであんなに美しいのだろうな。


「このピアノは捨てられるんだ。明日ばらばらにされるんだ。古くなったからお払い箱さ。もう使い物にならない。ずっと調律だってされてない。鍵盤だってまともに沈まない。弾けないんだ。ボロボロで、埃を被って、薄汚くこいつは死んでゆくんだよ。」


薄暗いバルの中、ギアッチョが立ち上がったので、殴られるのかもしれない、と思った。俺は泣いていたのだった。別に悲しいわけじゃない。寂しいとか悔しいわけでもない。ほんとうにただ、わけもなく涙だけが、流れるのだ。
ああ、目を瞑っていても、ギアッチョがどこに居るのか分かる。俺の目の前に立って、さあ、俺を殴るだろうか、それとも抱きしめるだろうか。
ただ、死にかけていたピアノをたちまち生き返らせた、その手が俺に触れるのなら、或いは。


(俺も、生き返ることができるのかも。)
















しかばねの人





















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