「あいつといるとき、優しい顔になっている。」


急にそんなことを言われて驚いた。主語も固有名詞も完全に省かれた文章だったから、誰といるとき誰が優しい顔なのか、つまりその文章の意味するところが全く分からなかったのだった。
イルーゾォは冷蔵庫から取り出した卵を、もやしみたいな手でもてあそびながら、気だるそうに再び口を開いた。クッチーナに立っているくせに、料理をする気はまるでないらしい。


「お前のことだぜ、メローネ。気付いてなかったのかよ。」
「何が。」
「だから、表情が全然違うんだよ、お前。」


イルーゾォは長い前髪を指先で掻き分けて、白い額をトントンとたたいた。イルーゾォのテンションは、良く分からないと思う。睫は黒く濡れていて、意外と長い。顎をクイ、と上にあげたときの顔が、何となくマイケル・ジャクソンに似ている。




「例えば、世界や人間がこういう卵のようなものだとして。」


イルーゾォはさっきからいじっていた生卵を俺に見せると、コトリ、という音を残してそれをテーブルの上に置いた。ころりと一つ転がった、真っ白な卵。


「お前、コレをどうしたい。」
「は。何それ。意味のねぇ質問だなァ。」
「いいか、卵は世界なんだよ。」


イルーゾォは、オペラの幕間のように瞼を閉じて、その長い睫を一度翻すと、もう一度「卵は世界だ。そして、人だ」と言った。ネアポリスの夏は当然だがとても暑い。クーラーを入れたいんだが、今壊れてて水が漏れるってんでダメらしい。




「興味ないね。卵ならスクランブルが好きだな。」


俺はテーブルの上の卵をかっさらうと、ぱっと手を開いてそれを落としてやった。白い卵はゆっくりと俺の手から離れ、くるりと回転しながら落下して、床の上でぱちんと弾けてしまった。こういう風に死んだ人間を俺は見たことがある、何度も。卵みたいにぐしゃってなったよ、頭がね。
世界がこうなら楽でいいな。大体、世界や人間が卵なら、最初から腐っているに違いない。そう言うと、イルーゾォは幕間の瞼を開いて、烏の羽色のような瞳を二、三度瞬いた。


「そう、世界ってのは、腐った卵くらいの価値しかねぇ、お前にとって。でも、あいつのことだとお前は違ってる。」


卵はべちゃりと床に広がって、こんな風に人間も世界も弾けてしまえばいいのに、と自分がずっと考えていたことに気が付いた。興味はないが、早く終わるに越したことは無い。面倒くさいことは嫌いだ。


「いいか、卵を空に割り落としてみな。青い青い空に、白い卵をぱっくり割って、新鮮な黄身がとろりと落下するんだ。」


イルーゾォは床の卵には目もくれずにテーブルの上に座ると、いやに神妙な顔で俺を見た。空に卵を割り落としたら?夏の太陽みたいだな、空からどろりと落ちてきそうだもんな。


「沢山の腐った卵の落下する中に、ひとつだけお前にとって意味のある世界がある。それは愛とか恋とかじゃあない。理由なんか無い。人が太陽に焦がれるのと同じことだ。お前にとってただ一つ、腐っていない卵があるのさ。」


あいつが帰ってきたら、自分の胸に聞いてみな。そう言ってイルーゾォは、フイとテーブルから飛び降りて、冷蔵庫から新しい卵を取り出すと、フライパンをコンロにかけて、目玉焼きを作り始めた。まるで今まで話なんかしてなかったみたいに。




あいつが帰ってきたら…。その言葉を聞いて、ぱっと浮かんだ顔があったのだけれど、わけのわからない卵の話なんかしたら、また重箱の隅をつつくような反論が始まるに決まってる。でも、それも別にいいかな、と思っている自分が不思議だった、何となく。イルーゾォの言うとおり、優しい顔をしているのかもしれない。優しい顔なんてのがどんなもんか、分かりゃあしねぇけどな。まあどうだっていい。
落下した卵が床で潰れようが興味はないが、空の上で太陽になるってのはなかなか面白そうだと思う。俺はベイビィ・フェイスを小脇にかかえると、目玉焼きを皿に盛るイルーゾォを横目にクッチーナを出た。
多分もうすぐあいつが帰ってくるだろう。そういえば、クーラーが壊れているんだった。怒らせてスタンドを出してもらえば、この暑さも少しはましになるかもしれないな。




















落下したの運命なんて、





























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