道端に倒れている、ガキが一人。 ネアポリスの路地裏を歩いていて、浮浪児の一人や二人なんてのは別に珍しい光景でもない。 財布を掏られたり(まあ俺はそんなヘマはしないけど)、食い物をたかられることなんざそれこそ日常茶飯事だ。 ガキは息をしていないように見えた。 歩みをとめて見下ろすと、もはやボロ布になった服の間から枯れ枝のようにやせ細った手、何かものの腐りかけているようなひどい臭い、艶もなくばさばさに伸び放題の髪が、倒れた子供の横顔を覆い隠している。 こんな風に子供の死体と出会うのは、俺には初めてのことだった。 浮浪児自体はネアポリスにたくさんいるし、そいつらも自分たちの知恵を駆使してなんとか一日でも生き延びようと必死だから、そう簡単に死んでしまうようなことはない。 しかし、冬が…この街を覆いつつある悪魔のような厚い雲、全ての生命活動を停止させようとする冷たい北風が、浮浪児たちにそれを許さない。 夏のように路上では寝られなくなり、収入源の大部分であった観光客も閑古鳥が鳴くようで、強い風が浮浪児たちのなけなしの体力をどんどん奪っていくからだ。 弱い者から順に死ぬ。 分かってはいても、実際目にしたのは初めてだった。 (…感染症か) 北風に髪を遊ばれながら俺はぼんやりと思った。 知らず着ていたコートの襟元をしっかりと合わせた。 近づいて確かめたわけではないが、この子供は病気で死んだのだ。体力のないところに風邪でもひけば、こんなちいさなガキならひとたまりもない。 子供はまだ10にも満たないようだったから。 と、そのとき子供の手がちいさくぴくりと動いた。 俺はその場に縫いとめられたようにその子供を見つめた。 子供の頭がかすかに…本当に、注意深く見ていなければわからないほどかすかに動くと、横顔にかかっていた前髪がはらりと落ちた。 ほとんど光の死にかけている子供の目が、俺を捕らえた。 かさかさに乾いた唇が、俺に向かって何かを言おうとした。 「…。」 言うべき言葉は俺にはなかった。 俺は小さくため息をつくと、最初にこの場所を通りかかったときと同じ歩調で、その場から離れた。 あのガキはもう死ぬだろう。 そう考えて、それから今夜の晩飯は何にしようか、と思案する。 ホルマジオは、俺の話を黙って聞いていた。 食事は既に終わり、食後のワインと軽いつまみにクラッカーとチーズが机の上に並んでいる。 温かい部屋の中とは対象的に、窓の外には墨を流したような闇の中に、はらはらと散る雪が時折浮かんでは消える。 「まあ、それだけの話なんだけど。」 んん、と呟いて、ホルマジオはワイングラスを控えめに傾けた。 今夜はそう飲むつもりでもないようだった。 ガキを助けてやらなかったことを、後悔しているわけではなかった。 別に、人殺しの仕事をしているから、今更一人助けたところで…なんて感傷にひたっているわけでもない。 ただ、本当に気にならなかったのだった。 その道をふと通りかかったら、偶然子供が死にかけていた。 俺にとっては、そのあとすぐに晩飯のことを考えられるくらい、どうでもいいことだったのだった。 「なあ、あんたどう思う。」 俺が尋ねると、ホルマジオはワインを手酌しながら少し微笑んだように見えた。こちらをみていないので、はっきりとは分からなかったが。 どう思うってなんだ、自分で訊いといてなんだが全く要領を得ない。 子供が死にそうだったことについてか? それともそれをみすみす見殺しにした自分についてか? それとも…。 俺はホルマジオの答えを待った。 控えめなランプの灯りに照らされた部屋の中で、しばらくの間時計がこちこちと、時を刻むだけだった。 ホルマジオはワインのグラスを派手に傾けてそれを飲み干すと、一つ息をついて、しょうがねえなぁ、と笑った。 それだけだった。 ただホルマジオが微笑んで、しょうがねえなぁと言った、それだけだったのだが、彼のその動作によって、今まで俺の心の奥の奥にせき止められていた感情のようなものが、堰を切ったように一気にあふれ出してとまらなくなった。怒涛の波のように、大きな翼のように、それは飛び立とうとする、俺の心から。 そう、俺は忘れていたのだった。 死にかけたガキを憐れむ気持ちも、そいつを助けてやろうという慈悲も、今まで自分が歩んできた苦しみの道も、何かを愛したいとう心も、何もかも。 あのガキが冷たく凍った路上で死にかけていたとき、本当は俺のなかに様々な感情が呼び起こされたはずだった。 助けてやらなければという気持ち、けれど助けたところで、そいつがもしかすれば自分より幸多い人生を歩むかもしれないことへの醜い嫉み、痩せ細った腕と昔の自分。 けれど俺はあの子供をを助けるのが怖かった。 助ければ、その瞬間俺は死ぬしかなくなる。 殺すか殺されるかのこの世界で、色々な感情を忘れることでどうにか今までこうして生きてこられたというのに、もしそれを全部思い出してしまったとしたら。 あまつさえ、その感情を狂おしいほど求め始めてしまったら、暗殺者の俺は死ぬしかなくなってしまう。 そんな感情を抱えたまま、人を殺して生きていけるほど俺は強くはない。 俺は倒れこむようにしてソファに座った。 うつむいて額を強く抑えると、今まで俺が無意識に忘れようとしていたものたちが、喉元をせりあがって一気に外へ出たがった。 「イルーゾォ。」 泣いているのか、お前。 ホルマジオの声がすぐ傍で聞こえた。 泣いて?泣いてなんかいない。ただ、必死で押さえ込もうとしているだけだ。ただ… ホルマジオは俺の隣に座って、俺の軽く肩に腕を乗せた。 少し微笑んだのが気配で分かった。あんたは俺が何も言わないのに全部を分かるのか?俺はあのガキを助けたかった。俺が死にたくないように、あのガキを生かしたかった。心を忘れなければ生きられないのか、俺たち暗殺者は?怒りを嫉みをそねみを苦しみを哀しみを罪悪感をそして愛を。気が狂いそうになるほど生命を求める心を。なあホルマジオ、あんたはどういう風に今まで生きてきた。 「いいかイルーゾォ。お前にとって大事なことは、何があっても忘れるな。汚ぇ感情でも、たとえ苦しくても、それによって自分が死ぬことになろうとも、絶対に忘れるな。あのガキを助けたかったと、お前はそれを覚えていろ。そのガキの姿を、お前は一生覚えていろ。イルーゾォ、そうすることでお前は生きられる。もし明日死ぬとしても、お前はお前として生きることができる。死ぬまで、一生。」 俺が久しぶりに、それこそ何年かぶりに嗚咽をあげて泣いている間、全ての感情が出払ったあとの俺の心の中を、ホルマジオの言葉が満たした。 覚えていろ、それによって自分が死ぬことになっても。そうすることで俺は生きられる。 死ぬまで、一生。 泣きじゃくる俺の横で、ホルマジオは空の二つのグラスをワインで満たし、一つを俺に手渡した。 鼻を小さくすすると、頬から流れ落ちた涙が一つ、グラスの中に落ちて小さな波紋をつくった。 なあ、と俺は窓の外に降る雪を見ながら呟いた。 この涙でお前は浮かばれてくれるか。 死者のために二人で小さな乾杯をしたとき、ホルマジオが目を伏せて微笑んでいたことを、俺は一生忘れないだろうと思う。 「ボン・ビアッジオ。良い旅を。小さな足の旅路に、神の加護があるように。」 |